ニュース & トピックス > ゴン太のひとり言 ブラジル編

 Candomble' カンドンブレ
( SALVADOR )

カンドンブレとは、この地(サルバドール)に奴隷としてつれてこられた16世紀、それ以前のアフリカから伝わる黒人密教。(基本的には外部者が入 ることはできないが、最近では少しですが部外者を受け入れるところも出てきている。)

観光スポットから外れた住宅街の中にあるカンドンブレの行われているテヘイロ(Terreiro カンドンブレの祭儀場)に何軒か行くが 、その日に行なっている所がなかなか見つからず3軒目でやっと見つかる。
その中に入っていくとかなり異様な雰囲気。
信心深くないほうだが、出入りする人が黒を一切身に着けてはいけない白一色のその場所は独特な雰囲気があり神聖な場所のように感じる。
この場所まで運転してくれた現地タクシードライバーの、それまでのラフなイメージとは一転した信仰心の強い姿を見ると、その感覚をより一層強くさせた。
(現地のタクシードライバーはかなり運転が荒い。1車線のところを無理やり2車線にしたり、センターラインなんかお構いなし。警察はそれを見ても 注意するどころか笑顔で挨拶している。クラクションもしょっちゅう鳴らしまくり。とにかく荒い。)

まず庭で食べ物を囲み、太鼓の奏でるリズムにのせ歌い踊りながら大きな葉に何種類かの料理を包み配る。
(残念ながらその意味は分らなかった。)

次に一面が白で覆われた部屋の中に移り、次の儀式が始まる。
進行をつかさどるのは、白い民族衣装を身にまとった男性。ハンドベルのようなもので複雑なリズムを奏でながら、次々とイントロを歌い曲を進行させていく。(教会の神父のような人だろうか)
白いバイーア衣装に身を包んだ人々(ほとんど女性)が部屋の中央でアゴゴで刻まれたクラーヴェとコンガのような太鼓のグルーブにあわせて歌い踊る。
曲のほとんどは6/8でサウンドはやはりアフリカのものとかなり似ている。

その中で6歳ぐらいの子供二人が大人の中に混じり、アゴゴや太鼓(小さいコンガのようなものを細いティンパレスのバチのようなもので)を叩いている。これがまたグルーブすること!彼らが間違えたり、勘違いしているような部分があると後ろにいた大人が教え修正する。曲によっては子供たちは脇によけ大人の演奏を観察している。
歌い踊る女性も十台前半からかなりの高齢の方まで年齢層が幅広く、若いものは高齢者に対する敬意の念を強くもち、高齢者は若い世代に伝えながら進行していく風景が印象的だった。このようにして先祖代々受け継がれ、そしてまた若い世代が次の世代に伝えていくのだろう。

約2時間の間止まらず次々と曲が進み、終わりに近づくと何人かの女性に精霊が舞い降り(鳥の精霊が舞い降りるものなど変化は多種多様)トランス状態に入る。

最後は若い十台ぐらいの女性が楽しげに、そして激しく歌い踊りその儀式は終了する。
(A.C.JOBIMが音楽監督を務めた映画、“黒いオルフェ”の中でもこのような場面があるので、気になる人は見てみてください。 このわかりにくい文章を補ってくれると思います。)

中心の大きな建物は現在、郷土品市場とレストランになっているが、この地下はかつては奴隷が収容されていた場所。
リカルド・モデイロ

左の写真の昼間の風景。
トドス・オス・サントス湾とラセルダエレベーター

かつて奴隷市場のあったぺロウリーニョ広場ここで行なわれている強烈なリズムと踊りの素晴らしさ、そして何より音楽の持つ本当の力とそれを演奏する人の姿勢を体験できたことは、今後の私の音楽人生にとって大きな財産になった。
そして音楽を奏でることにもっとも必要なことは、その音楽の持つ意味をしっかりと認識し表現すること、その演奏者の内側(コラサン)が一番大切なことなのだということを改めて痛感させられた。

また、このカンドンブレに限らず、カポイエラや音楽の中から感じられる、先代や年配者に対する敬意と伝統(文化やスピリット)を受け継いでいく姿は、なかなか 私の周りでは目にすることのできない素敵な光景だった。
私たちの中にも、それぞれの家庭の生活スタイルやモラル、その職業の技術や考え方など些細なことからとても大切なことまで、数多く受け継いでいかなければならないものがあるにもかかわらず、その事に対してあまりにも無関心なような気がする。
教わる側はそれを受け継げることに対する喜びと、伝える側は大切なことを伝えなければならない責任をもっと自覚する必要があるのではなだろうか。

特に私達音楽に接しているものは、先人の偉大な音楽家からのメッセージの本質をしっかりと受け止め、次の世代に自分の言葉で少しでも多くのことを伝えていかなければならず、それが私達音楽に接する者が存在する意味と最大の責任であるように思う。

“心のおもむくままに”という本の中に、こんなような意味のことが書かれていた事を思い出した。

誰かが亡くなったときの悲しみの大きさは、その人に何かを伝えられなかったこと、または聞けなかったことの数や大きさに比例する。