ニュース & トピックス > ゴン太のひとり言 ブラジル編

音楽と楽器

ペロウリーニョにある楽器屋のスタッフ。この店には魅力的な楽器や絵が数多く並んでいる。サルバドールのセントロ(中心地)には、現代の楽器を取り扱う楽器店が3件ほどあり、ビリンバウやパンディエロ、コンガなど土産を兼ねた楽器店が5・6軒あるが、日本で売られているような高額な楽器はないに等しい。
パールのトラベラーズセットやプレミアの一番下のモデルが貴重品のように大切に飾られている。シンバルもビギナーズセットに付いてくるようなチープなシンバルしか置いていない。
リオのカリオカ通りの楽器店でさえ、楽器の種類は増え内容も少しよくなるが基本的にはサルバドールとさほど大差はない。(ベースやギターも同じ)

楽器店に限らず今回の国外追放中に観てきた数多くのライブすべてで、日本で見るような高額な楽器は一つもなかった。リオにある有名なライブハウスでさえ、本当にチープな楽器がおいてある。(が、演奏が始まると本物である。)

私は魅力的な楽器に囲まれ、多少がんばればそれが手に入る環境にいるためか、大切なことが何なのかを忘れてしまっていたのかもしれない。もちろん楽器にもいいものとそうでないものはあるが、それが一番なのではなく、それを演奏する人間が本物の音楽と音かを知っていて、それが当たり前にイメージでき、それを音にかえる技術があるかどうかということが一番大切 だということを。本物のミュージシャンが演奏すれば、なべのふたでも、ゴミ箱でも本物の音がする。

ビリンバウの公衆電話土産品として売られているものを除いた 、手作りのパンディエロやスルド、ビリンバウなど、その土地の楽器はどれも身近に手に入る素材で作られているが本物の音がするものばかり。やはり本物の音楽と音を知っている人が作るものは材料がいくらチープであっても本物の音がする。

本物の音に接する機会が少ないのは大量に出回っている音楽ソフトにもあるようにも思う。確かにそのおかげでブラジルのような地球の反対側の素晴らしい音楽でさえデッキに入れてプレイボタンを押せば聴ける。が、いかにその録音状態が完璧であろうとも、本物の音はそこからは聞こえないということを 今回の追放で改めて痛感させられる。
そしてその音楽の持つ本当のパワーはそこからは30%ぐらいしか伝わってこないということも。スピーカーから聞こえる音を本物の音だと思い込み満足して しまっていたのかもしれない。本物の音はソフトの中にはないのにもかかわらず。。。

それと音楽を聴く側の姿勢も大切だということも改めて自覚する。多くの人が知っているとは思うが、本物の音楽が生まれる場所に住む人々は本当に音楽を心から楽しみ、当たり前のように踊り、一緒に歌い、そしてそれが私生活の中に当たり前にある 。
リオのカーニバルなど日本でも良く映像で目にすることがあるが、あれは特別な時だからああなるのではなく、どこであてっもどんなときでも本物の音楽が聞こえてくると彼らはあの状態になる。
それを目の当りにしただけでもかなりのショックを受けた。

遊びのひとつとして音楽が自然に楽しまれている。パンディエロを奏でながら遊んでいる子供たちも多く見かけた。音楽を特別なものにしてしまっていたのかもしれない。
ブラジルには当たり前に音楽がある。リズムがある。メロディーやハーモニーがある。 それに接するだけで自分の中の大きな壁が崩れていくのを感じた。日本に居る時にそれが聞こえなかったり感じなかったのは、自分の心がそれを受け止められない、または聞こえ なくしてしまう大きな壁を作ってしまっていただけだった。リズムが悪い?歌が歌えない?それは自分の心が何かを恐れていて閉じてしまっているだけ だった。

あと、少し矛盾するが日本で行われている現地ミュージシャンのライヴを見に行ったとしても、それは現地でみたライブで感じる半分ぐらいしか伝わってこない 事も痛感する。その土地の人々や言葉 、建物、生活スタイル、伝統などに触れて初めてその音楽の本質が少し聞こえてきたきがする。
特に、楽曲のスタイルがいくら変化(進化)しようとも、太古から受け継がれている“物”をしっかりと受け継いでいる姿やサウンドを少しでも感じることができたことはかなり意味があったように思う。

自分の望む音楽の生まれた土地や人々、そしてそこにある“物”に接し、心の壁を取り外さない限りその音はいつになって自分のものにはならない のかもしれない。